2000年7月29日

からだと性の法律をつくる女の会 御中

先天性四肢障害児父母の会
                               いのちと権利チーム スペースいのち


「避妊、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する法律(案)」への意見書


 私たちは、手足や耳などに欠損や変形、機能障害などをもつ子とその親が集い、子どもたちが障害を理由に偏見と差別をうけることなく、ありのままの姿でともに暮らしていける社会をめざして活動を続けています。
 さて、貴会のホームページにて公開しております「避妊・不妊手術および人工妊娠中絶に関する法律(案)」を読ませて頂きました。
 つきましては「女性の自己決定、個人の意志による”選択的”人工妊娠中絶」について、以下のとおり意見を述べさせていただきます。
 

  「五体満足」への執着、「障害をもって生まれたら、親も子も不幸」との思い込み−世の中にはまだまだ先天的な障害を排除しようとする「社会淘汰」の論理が根深く、私たち一人ひとりの心の底にも知らず知らずのうちに同様の意識がうえつけられているのが現状ではないでしょうか。
 「自己」をめぐっては、本人の自由意志のみならず、本人と夫、親戚、地域社会、医師との関係など重層的で複雑な関係が背景としてあることを見逃すことはできません。こうした環境条件の中で自己の自由な価値観、いのちの選別を拒絶する自立した思想に基づいた、真の意味での「自己決定」を確立するのは、はたして可能なのでしょうか。
 障害の有無に関わらず、わが子を出産するかどうかを、女性が本当に自由に選択できるための条件とはどのようなものなのでしょうか。障害に応じたきめ細かい療育サービスの確立。ともに違いや多様性を認めあう寛容な風土。これら、たとえ障害があるとわかっていても「安心して産み育てられる環境」を築きあげていくことではないでしょうか。障害をもって生きることがごく当たり前のこととして社会に浸透したときこそ、本来の意味での「自己決定」が初めて成り立つのだと思います。
 さらに何よりも人工妊娠中絶をめぐっては、自己=女性とは単純には言えない特殊な関係性、すなわち胎児という別個の存在、生命が決定の対象となっている本質的な背理が横たわっています。胎児は自己の所有物または付属物とは安易に言えません。この矛盾はなおざりにはできません。
 私たちは、あらゆる人工妊娠中絶を排撃してやまない、いわゆる「生命至上主義」(プロライフ)に与するものではありませんが、現状の社会環境や当事者意識のままに「自己決定」・「自由意志」の名のもとに人工妊娠中絶を安易に容認することは、いのちの質による選別、障害を理由とした”選択的”人工妊娠中絶を助長するものと危惧しています。
 「障害児の発生予防」につながる”選択的”人工妊娠中絶が横行する現実を前に、障害があってもたくましく育ちゆく子の親として、生命倫理や人権の見地から批判しつつ、その解決の道筋を模索しているのです。私たちは、人工妊娠中絶の中でも”選択的”なそれは法的に禁じられるべきだと考えています。
 女性は、「出産」するときだれしも自らのいのちの危険を賭けて次世代へ「新しいいのち」を継ぎます。そんな大切ないのちである以上「どんないのちも安心して産み育てられる」ことを保証することこそ最優先されるべきであると考えます。

以 上

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2000年12月1日

 先天性四肢障害児父母の会 御中

からだと性の法律をつくる女の会


「避妊、不妊手術および人工妊娠中絶に関する法律(案)」へのご意見に対して


 7月29日に、貴会から「『避妊、不妊手術および人工妊娠中絶に関する法律(案)』への意見書」をいただきました。私たちが法案をまとめたのは97年11月です。その後の3年間におきた状況の変化を念頭におき、また、貴会はじめ多くの方からいただいたご意見をもとに、法案の再検討をしています。
 意見書へのお返事は、再検討後の法案とともにお送りしたいと考えておりましたが、まだ時間がかかりそうですので、意見書へのお返事を先に書かせていただきます。

 1996年に、障害者への差別となっていることを理由に優生保護法が「改正」されたにもかかわらず、優生思想を払拭する政府の取り組みはなく、むしろ生殖に関わる「医療」技術の中で生命の質の選別が進んでいます。しかも「改正」によって、優生政策は国の政策としての形が見えにくくなり、すべてが個人の選択と自己責任の問題として片づけられようとしています。こうした認識と怒りを、貴会と私たちは共有していると思っています。

 性と生殖における自己決定を実現したい女性の立場からも、優生政策は許せません。それは“障害者に対する支援”からではありません。障害者と同様に女性も当事者として、強い気持ちでNO!を言っています。当然のことながら、女性にも障害をもつ者、病気の者など、さまざまな立場の人がいます。そして、障害児の出生が歓迎されない社会は、障害のない子どもを産まなければいけないというプレッシャーを女性に与え、不安にさせます。このような状況は、女性やそのパートナーを出生前診断へと駆り立て、しばしば胎児の選別という結果を招くことになります。これは、いわばソフトな優生政策であり、生殖における女性の自己決定を脅かすものです。

 妊娠・出産にはさまざまなことが起こる可能性があり、だからこそ、どのような場合にも−−胎児があるいは生まれた子どもが障害をもっていてもいなくても、性別が何であっても、婚姻関係の中でも外であっても−−妊娠・出産すると決めた女性(とパートナー)に、歓迎と支援があることを、私たちは求めています。

 貴会意見書の「記」上から7行目〜に、次のように書かれています。
「〜出産するかどうかを、女性が本当に自由に選択できるための条件とは〜中略〜たとえ障害があるとわかっていても『安心して産み育てられる環境』を築きあげていくことではないでしょうか。障害をもって生きることがごく当たり前のこととして社会に浸透したときこそ、本来の意味での『自己決定』が初めて成り立つのだと思います。」
 このことには、私たちもほぼ同意見です。「子どもを産むか産まないかを女性が本当に自由に選択できるための条件」に、「子どもを産まない・産めない女性への差別・偏見をなくすこと」も付け加えたいと思います。また、「障害をもつ女性が子どもを産むことに対する偏見・抑圧をなくすこと」も付け加えたいと思います。

 その次の段落に、「胎児は自己の所有物又は付属物とは安易に言えません。」とあります。この文章に、私たちは少しがっかりし、ちょっと困りました。私たちは、人工妊娠中絶が安全で合法的に、女性の意思にもとづいて行われることを求めていますが、その理由は胎児が女性の「所有物又は付属物」だからではありません。そのように主張したこともないのです。
 「胎児は自己の所有物又は付属物と安易に言う・・・」は、中絶をする女性あるいは中絶の合法化を主張する女性を、「生命というものを軽く見ているエゴイスティックな人間」であるかのように非難する意図で、しばしば使われる言い回しです。貴会は「プロライフに与するものではない」と言っておられるので、そのような意図をおもちではないことと信じます。しかし、これに対して何も言わずにいれば、私たちがこのように主張していると受け取られるかも知れず、また、単純に「こんなことは言っていません」と書くだけで済ませることもできません。どう答えるべきか、悩みました。

 女性が妊娠について考えるとき、あるいは妊娠が現実となったとき、胎児をどのように感じるか、それは人により、また置かれた状況によって本当にさまざまです。胎児を、待ちわびたかけがえのない存在と感じる場合もあれば、受け入れることができなくて悩む場合もあるでしょう。中には「自己の所有物又は付属物」と捉える人もいないとは言えません。しかし、さまざまな感じ方のどの一つも、他の人間が「善し悪し」を云々できるものではないでしょう。そして多くの場合、中絶を決める女性には、個人の考えだけではない産めない事情があります。歴史をさかのぼれば、女性が子どもを産むあるいは産まない背後に、いかに時代や社会、あるいは国の要請が重く存在するか、貴会も良くお分かりのことと思います。

 社会のあり方を問い、より良く変えようとする市民の運動としてできることは、上記のようなさまざまな感じ方と決定の背景に何があるのかを考え、広く社会や国に伝え、働きかけることだと思います。妊娠に、また中絶に直面する女性の背後には、公式あるいは非公式の人口政策・優生政策があり、「家系を絶やすな」といった家父長的考えがあることはご承知のとおりです。女は子供を産んで一人前というような抑圧的な文化、性差別・障害者差別もあります。それらが圧力となって、女性の決定を左右することを止めさせるのが、運動としてできることだと思っています。

 貴会意見書で最も気になったのは、「人工妊娠中絶の中でも“選択的”なそれは法的に禁じられるべき」と言っておられるところです。
 私たちが言ってきた中絶の合法化とは、単純に「子どもを産むか産まないか」を女性の意思で決めたいということです。「胎児の選別」を望んだのではありません。私たちが優生思想・優生政策に反対し、女性を胎児の選別に向かわせるような圧力をなくしたいと強く願っていることは、先に書いたとおりです。私たちは法案の再検討にあたって、そのことをもっと反映させたいと考えています。しかし「法的に禁じる」ことには疑問があります。

 貴会は具体的に、誰に対してどのように「禁止」するとお考えでしょうか。「胎児に障害が発見されたら中絶することを前提とした出生前診断」を、禁じるのでしょうか? 「胎児に障害が発見された場合の中絶そのもの」を禁じるのでしょうか? 後者であれば、「胎児の属性にもとづいて中絶の可否を決める」という枠組みを、法律の中に作ってしまうことにならないでしょうか。それは、私たちが許せないと考えている「胎児条項」の呼び水になってしまわないかとの不安を抱きました。いずれにしても、女性が中絶をすることに対して何らかの「法的な禁止」をお考えなら、たいへん理不尽に思います。

 貴会と私たちに共通する主張は、「妊娠・出産・中絶の決定に、優生思想・優生政策を介入させてはならない」ということだと思います。市民の運動として何ができるか・・・に戻って考えれば、障害者差別・性差別をなくし、すべての個人の人権を保障する、胎児や受精卵の診断技術をこれ以上開発・普及させない、すでに行われている技術は適用を厳しく制限するなどの働きかけでしょう。産む産まないの決定において、女性に法的な禁止を科すことでは決してないと考えます。もし女性に対する法的な禁止をもって対処するならそれは、堕胎罪に象徴される、国が行ってきた政策と変わりがなくなってしまいます。


 国や社会や医療現場の状況が、私たちの望みとは反対の方向に進んでいることに危機感をもつのは、私たちも貴会と同様です。そして、障害者も女性も、人口政策・優生政策に組み込まれている点で同じ立場です。その状況からの解放は、どちらかの人権を制限して達成されるものではなく、また、女性と障害者どちらかが優先するのでもなく、共に目指すほかありません。

 以上、貴会のご意見を正確に読みとれているか、書いたことを理解していただけるか、心配ではありますが、意見交換の機会がこれからももてることを願いつつ、お返事とさせていただきます。


からだと性の法律をつくる女の会